森崎日記

読書メーターから来ました

偉人達の規格外な努力(仏教の話題多め) 斎藤兆史「努力論 決定版 (中公文庫)」 感想及びまとめ

・概要

日本の偉人達の規格外な努力エピソードを紐解きながら、努力ができるようになるにはどうすれば良いのか、努力するとはどういう事なのかを論じた本。

 

・努力するとはどういう事なのか

努力していると自分では思っていても、実際は努力していない事が殆どである。努力していると思いながらやっていてもダメで、日々の習慣の中で努力を努力と感じない、「三昧」の所まで行き、そこに留まり続ける事が最終的な目標である。

正岡子規の「病牀六尺 (びょうしょうろくしゃく)」の中に悟りに関する興味深い一節がある。「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」これは実に示唆に富む言葉である。

 

平気で、つまり穏やかに生きる事は非情に難しい。殆どの人間はそれができず、人間は些細なことで一喜一憂し、時には自暴自棄になることもある。しかし、勉強や仕事がうまく行こうが行くまいが、毎日、自分が、なすべきことをこつこつと平然とこなしていく人間が一番偉いのである。嬉しい、つらいという主観を超越し、平然と事が行えるようになったとき、そこに三昧の境地があり、悟りがある。

おそらく、努力の真諦もここにある。志を立てて地道な努力を続けている内に三昧に入る、というのが理想的だが、そのように上手く行くことは殆ど無い。そこには必ず逆境というものが存在する。逆境から逃れられる人間は一人としていないからこそ、逆境にこそ三昧に入るカギがある。逆境をどう乗り越えるのかは人それぞれだが一つ確実に言えることは、自暴自棄だけは絶対にいけないということである。

 

河口慧海の人生

35歳にして日本人で初めてチベットに入国し、そこで多くの資料を日本に持ち帰り、80歳で死ぬまでにおいて独身・菜食・清貧の生活を貫きながら、多くの著作を発表し続けた仏教学者の河口慧海を始めとした、仏教に関わる多くの人間達は常人では考えられない程の努力をしていた。

 

河口慧海の話を読んだら、人間は何をしたっていいんだなという気持ちになった。それは、人間は遊ばなくても全く構わない上に、成功を目標にしたり成功者達を羨ましがる必要も全く無いんだなと思ったという事である。

河口慧海はとにかく努力していた(努力を努力と思わない所まで行っていた)が、それは将来の成功や贅沢のためにやっていたわけではない。努力のために努力する、つまり努力そのものを目的するようなやり方でも全く構わないという事なのだろう。

 

森田正馬は、「幸福は人生の目的であって、「努力=幸福」であるから、人生の目的もすなわち努力であるわけだ。そして人生の手段も努力であり、また人生の実際(本人が頑張っていると思っている思っていないに関係ない、生きるということそのもの)がこの努力なのである」と発言している。

また鈴木大拙は、「修養(徳性をみがき、人格を高めること。)は一生を通じての事業でなくてはならぬ。「これでよい」などと、どこかで一休みすると、そこから破綻機会が生れる」、「人間の一生は不断の努力であり、永劫に聞かれぬ祈りであり、無限に至り得ない完全性の追求であるといえるのです。」と発言している。

 

また先程も書いたように、正岡子規の「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」の中には、「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」という一節がある。

どんな状況に置かれていても、心が穏やかな状態で生きていける事を目指すことは、仏教における本質の一つであるだろう。穏やかに生きる事は非情に難しい。殆どの人間はそれができず、人間は些細なことで一喜一憂し、時には自暴自棄になることもある。

しかし、勉強や仕事がうまく行こうが行くまいが、毎日、自分が、なすべきことをこつこつと平然とこなしていく人間が一番偉いのである。本当に努力がしたいのであれば、穏やかな心で生きられるよう心がける事が必要不可欠なのだろう。