森崎日記

読書メーターから来ました

高史明「生きることの意味」 感想及びまとめ

 

nhkの「こころの時代」で高史明(コ・サミュン)氏が喋っている映像を見て、興味を持ったので読んだ。

 

在日朝鮮人二世として戦時下の日本に生まれた高史明氏による幼少期の自伝。

差別、極貧生活、劣悪な環境による弟との死別、父親の自殺未遂など、悲惨な出来事の数々を受け、著者は次第に凶暴な性格へと変わりはじめ、毎日のように非行を繰り返す日々をおくっていた。それでも、悲惨な出来事の数々から、「生きることの喜び」や「人のやさしさ」を感じ取ったり、また在日朝鮮人かつ非行少年である著者へ差別せずに向き合ってくれた阪本先生との出会いもあり、著者も人としてのやさしさを次第に取り戻していく。

 

それでもこの自伝は、日本の敗戦により世の中の価値観が180度変わり、その事がきっかけで著者自身のアイデンティティも崩壊し、それにより著者が自暴自棄になって学校を中退し、深い混沌の中で新しい歩みを始める所で終了する。しかし、その生きることが不安そのものである状況からの出発こそが、著者にとっての生きることの意味を、自分自身で探求していく歩みのはじまりでもあった。

 

著者のつらい出来事一つ一つは、苦しい記憶であると同時に、著者に人間のやさしさを教えてくれた。人間の生きぬいていく力は、どこか他から与えられるものではなく、辛い出来事の中から人間がみずから汲みだしていくものである。そして、安らぎとは苦しみを生きぬいていく人間が苦しみを乗り越えていくところにやどるものである。

 

また、人間は生きる過程において、さまざまな人と出会う。人間にとって、この出会いの全てが、生きることの糧になるものである。しかし、人間はこの出会いの全てから人のやさしさを発見できるとは限らない。人との出会いが、本当に人との出会いといえるにふさわしい出会いとなるには、人は何よりもまず、自分の人生をせいいっぱいに生きて、他人を、他の民族の人々を、自分や自分の民族と同じように大切にすることが必要である。そのためには、人はいつも、自分を見つめるように他人を見つめ、他人を見つめるように自分を見つめながら、その心を豊かにして、その目を澄んだものにしておくことが大切である。

 

この本の最後では、「生きることの意味」を書いている現在の著者により、生きる事の喜びや素晴らしさが語られて終了になる。しかし、後ろの解説にも書かれているように、この本が出版された半年後、著者の一人息子が自死したことにより、著者は再び絶望の淵に突き落とされることになる。この事がきっかけとなり、著者は親鸞(日本仏教の一つである浄土真宗の宗祖)に帰依する。そしてそこから、著者の宗教への道が始まる事になる。

 

「こころの時代」の中で、「生きることの意味」を書いた時はあのように思っていたけれど、今は考えがこのように変わっている、といった発言をしていたので、この後の高史明氏の本も読んでいきたい。