森崎日記

読書メーターから来ました

廣野由美子 批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書) 感想及びまとめ

放送大学で文学批評の授業を取ったものの、テキストが難解だったので、もう少し易しい所から始めたいと思ってこの本を読んだ。

 

分析する対象の作品を「フランケンシュタイン」の一つに絞って、「小説技法」と「批評理論」という二つの視点から作品を読解していくという内容の本。

 

この本でも、放送大学のテキストと同じように、文学批評における基本的なトピックが網羅的に触れられているが、新書サイズなので一つ一つのトピックの概要が簡潔にまとめられていることや、分析する作品が一つに絞られているということや、「フランケンシュタイン」という有名な作品を扱っているということ(作品に直接触れた事が無くても、何となくの物語の大枠を知っている。)のおかげで、かなり読み易かった。

 

個人的には、「性格描写」、「間テクスト性フランケンシュタインはどのような作品からの影響を受けているのか)」、「「フランケンシュタイン」のユング的解釈」の辺りの記述が面白かった。

 

一方で、いくらわかりやすく書かれているからといって、しっかりこの本の内容が身に付いているかと言われたら微妙である。やはり、自分で実際に批評を行ったり、自分で物語を考えたりしないと、批評の知識は身に付かないのだなと思った。なので今後何らかの形を通して、この本に書かれている事を血肉に変えていきたい。

 

 

 

 

「仏教3.0」とは何なのか 藤田一照、山下良道「アップデートする仏教 (幻冬舎新書)」  感想及びまとめ

「葬式仏教」という言葉が存在しているように、現代の日本仏教は外見だけを残して形骸化していると言っても過言ではない。「心の病院」であったはずの仏教は現在、心の苦しみを解決する具体的で有効な手段を殆ど説くことはない。この現代の日本仏教を「仏教1.0」とする。

それに対して「仏教2.0」は、ここ十数年の間に定着してきた外来の仏教(本書ではテーラワーダ仏教が念頭に置かれている)のことを指している。「仏教2.0」の特徴は、徹底的なメソッド化にある。「仏教2.0」では、「心を観察する」という仏教独特の方法をきちんと説かれ、またそれにより人生万般の問題を解決できると公言される。「マインドフルネス」という言葉が代表するように、今欧米で爆発的に流行している瞑想メソッドなども、この「仏教2.0」がベースになっている。

 

本書では、日本と海外の両方で、坐禅の修行及び指導を行った経験を持つ二人の禅僧が、「仏教1.0」「仏教2.0」で感じた行き詰まりを通して、それらの問題点を乗り越えた「仏教3.0」を模索する。そして、「仏教3.0」を提示する事で、本当に効果が実感できて人々の救いになるような仏教像を再び立ち上げようというのが本書のテーマである。

 

書かれている事が非常に難解だったので、全てを吸収できたわけではないのだが、私が重要だと思った記述を、ここではいくつかまとめておく。

 

①「頑張らないこと」が宗教の醍醐味

曹洞宗(日本における禅宗の一つ)には「只管打坐」という考えがある。

「只管打坐」とは、何かの目的の手段として坐禅するのではなく、ただひたすらに坐禅する、という意味である。曹洞宗においては、この「只管打坐」こそが「安楽の法門(安らかで穏やかな状態)」であるとされている。

アメリカ人にこの只管打坐を指導すると、「よーし、只管打坐をやってやるぞ!」といったように、「俺」が「頑張って」しまうので只管打坐ができなくなってしまい、「安楽の法門」ではなくなってしまう。

多くの西洋人の根幹には「自分が努力しないのに何かができるなんておかしい。頑張らない人が得をするなんて不公平だ。」という信念が存在している。

なので「自分には値しないほどの素晴らしいものが一方的に与えられる」という仏教的な世界観、つまり「他から受け取る感じ」をどうしても共有することができない。

「自分で頑張らないほうが坐禅になるんだよ」なんて言うと、「そんなこと本当なのか?」という顔をされてしまう。しかし、それこそが宗教の醍醐味であり、浄土真宗的な言い方をすれば、「他力」の世界なのである。

 

②「雲」と「青空」

本書の執筆者の一人である山下良道氏は、日本の「安泰寺」という修行道場で、内山興正老師に師事していた。そこで、山下氏は内山老師に「君の苦しみの原因は「思いの過剰」だ」と指摘される。それから、色々な先生方との出会いによって「思いの手放し」の具体的なやり方が「マインドフルネス」であると知った山下氏は、それを本格的に学ぶために全てを捨ててビルマへ向かった。そして、ビルマの瞑想センターで朝から晩まで瞑想を行っていた。

 

「マインドフルネス」とは「気づく」ということである。

では何故、「気づく」ことが「思いの手放し」になるのであろうか。

 

この疑問は、「気づく」主体がはっきりしないことにより生まれる。

例えば、アーナパマ・サティとして広く知られ実践されている呼吸瞑想では、「呼吸に気づいていなさい」と言われる。つまり、「息を吐きながら吐いている息に気づいている」というその状態を続けなさい、ということである。しかし、いくら頭で考えても、呼吸に「気づいて」いることと、呼吸について「考えて」いることの違いが見えてこない。だから、呼吸に気づくことで思いが手放せると言われても、何かがすっきりしない。

 

この呼吸瞑想を実践していてわかるのは、シンキング(思い)がある世界で気づくというのは不可能である、ということである。(日本語の「思い」という言葉には情緒的な意味も含まれてしまうのでここからは英語の「シンキング(thinking)」及び「シンキング・マインド」として表現する)

 

つまり、「シンキング」と「気づく」は別の次元に存在するものなのである。そして、「シンキング」が落ちたところでしか呼吸に「気づく」ことはできないのである。よって、呼吸に気づいている主体はシンキングの他にある、ということになる。

 

「シンキング・マインド」は主体と客体を分けていた根本的なものである。マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づくことにある。

 

では、「シンキング・マインド」が落ちた後に、「気づいて」いる主体とは一体どのようなものなのか。山下氏は、これを「雲」と「青空」の例を用いて表現している。

 

「シンキング・マインド」と「肉体」できた自分を「雲」とすると、今まではずっと自分は雲だと思って生きてきた。しかし、あるとき「雲」は一斉に無くなってしまった。しかし、「青空」になってしまった「青空」を認識できているわたしがいた。もしわたしが「雲」だったならば、「雲」が無くなった後のを認識できていないはずである。

そして、その時に「じゃ、わたしって誰?」という問いを発すれば、わたしこそが「青空」であったという答えが、導かれるのである。

「青空」であるわたしの中には、当然「雲」も浮かんでいる。つまり「雲」もわたしの一部なのである。しかし、今までとはパースペクティブ(全体の見通し)が違っている。今までは「雲=わたし」であった。しかし今では、わたしの本質は「青空」であり、その中に「雲」が浮かんでいるということになるのである。(初期仏教の経典である「アビダルマ」には、自分が「青空」であると初めて認識したときに生じるものが「道智」、「道智」を認識し続けることが「果智」として表現されている)

 

③「仏教3.0」とは何か

「仏教2.0」の仏教哲学では、青空は条件によって作られていないもの、つまり無為法に分類されている。テーラワーダの教学ではこの世界ではこの世界は四つの構成要素によって作られている。

 

その四つとは、心、心所、色、涅槃である。

さらにもう一つまとめると、心と心所を合わせて名(ナーマ)と言う。名は精神的要素の事である。またそれに対し、色は物質的要素である。つまり、この世界は、精神的要素、物質的要素、涅槃の三つということになる。最初の二つ、名と色は条件によって作られたもの、つまり有為法である。そして涅槃は、条件によって作られていないから無為法ということになる。

 

先の雲と青空の例で言えば、雲が有為法であり、青空が無為法である。この分類法では有為法と無為法はまったく別のカテゴリーであり、そこには何の繋がりもない。

テーラワーダ仏教において我々はどこまでいっても有為法なのである。よって、無為法である涅槃は我々にとっては常に外部にあることになる。

大乗仏教には「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」という言葉がある。生死というのは有為法のことであるから、それが即、涅槃というのはテーラワーダ仏教においてはとんでもない話になってしまう。ここにテーラワーダ仏教大乗仏教の決定的な違いがある。つまり、テーラワーダ仏教にとって有為法と無為法は断絶されたものであるが、大乗仏教にとって有為法と無為法は繋がったものなのである。

 

山下氏が修行していたビルマの瞑想センターでは、テーラワーダ仏教による方法論の体系化された瞑想修行を、多くの人々が実践していた。しかし、その瞑想修行で得られるとされているはずの成果を実際に得られる人間は、山下氏以外に殆ど存在しなかった。

山下氏は、この理由が日本時代に学んでいた大乗仏教の教えにあるとしている。

山下氏は、ビルマでの瞑想修行の中で、「わたし自身が青空である」と知った時に、初めて大乗仏教の教えが自分の体験として理解できたのである。

 

つまり、先の「青空の中に雲がある。青空が私の本質であるが雲も私の一部である。」という例は、大乗仏教における「わたしにおいて有為法と無為法が一つになっている」という思想に他ならない。有為法即無為法は無為法即有為法であり、これは般若心経で言えば、まさに「色即是空 空即是色」なのである。

 

ここから、なぜ大乗仏教が興起しなければいけなかったのかがはっきりと見えてくる。瞑想実践の中で無為法と有為法が二つ別々のままではどうにもならなくなったその袋小路を打破して、大胆に有為法と無為法が即の関係で繋がっているという立場が出てきたわけである。

 

そう考えると、法華経や中国の禅や道元禅師(曹洞宗の開祖)が強調していることの意味がもっと明確になってくる。また、「諸法実相(しょほうじっそう)」「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」「現成公案(げんじょうこうあん)」という言葉も全てそこから理解することができる。つまり、これらは「仏教2.0」を乗り越えるための鍵なのである。

「仏教2.0」が行き詰った理由は、「有為法」である自分が一生懸命に瞑想して、別の世界である「無為法」に行こうとしたからなのである。瞑想にしろ坐禅にしろ、「無為法である自分」に目覚めるところからしか始まらないのである。

「仏教3.0」とは、何か新しい思想などではなく、ずっと昔から存在していた大乗仏教の思想そのものなのである。

 

道元禅師の思想を紐解く上で重要になる考え方の一つに「修証一等」というものがある。これは「悟り」と「修行」を等しいもの(一等)として捉えるという意味である。人間は本来悟っているからこそ、本来的悟りを自覚的に顕現するために修行が必要である、ということである。この考えは、当時の日本仏教界で支配的だった天台本覚論(人間とは本来的に仏なのであるから、特別な修行は必要ないという思想。修行不要論。)ではあきたらなかった道元禅師が、禅宗に転向して打ち立てた修行論である。

 

つまり道元禅師の思想は、具体的な方法論を説かない「仏教1.0」の思想を超えようとする形で誕生したのである。しかし、それと同時に、今の自分とは全く別の世界に行こうとする「仏教2.0」の思想を超えるための思想として、本書では扱われているというのは非常に興味深い。「仏教3.0」とは、「仏教1.0」と「仏教2.0」の間に存在している、つまり「中道」に位置している思想なのである。

 

 

 

 

 

高史明「生きることの意味」 感想及びまとめ

 

nhkの「こころの時代」で高史明(コ・サミュン)氏が喋っている映像を見て、興味を持ったので読んだ。

 

在日朝鮮人二世として戦時下の日本に生まれた高史明氏による幼少期の自伝。

差別、極貧生活、劣悪な環境による弟との死別、父親の自殺未遂など、悲惨な出来事の数々を受け、著者は次第に凶暴な性格へと変わりはじめ、毎日のように非行を繰り返す日々をおくっていた。それでも、悲惨な出来事の数々から、「生きることの喜び」や「人のやさしさ」を感じ取ったり、また在日朝鮮人かつ非行少年である著者へ差別せずに向き合ってくれた阪本先生との出会いもあり、著者も人としてのやさしさを次第に取り戻していく。

 

それでもこの自伝は、日本の敗戦により世の中の価値観が180度変わり、その事がきっかけで著者自身のアイデンティティも崩壊し、それにより著者が自暴自棄になって学校を中退し、深い混沌の中で新しい歩みを始める所で終了する。しかし、その生きることが不安そのものである状況からの出発こそが、著者にとっての生きることの意味を、自分自身で探求していく歩みのはじまりでもあった。

 

著者のつらい出来事一つ一つは、苦しい記憶であると同時に、著者に人間のやさしさを教えてくれた。人間の生きぬいていく力は、どこか他から与えられるものではなく、辛い出来事の中から人間がみずから汲みだしていくものである。そして、安らぎとは苦しみを生きぬいていく人間が苦しみを乗り越えていくところにやどるものである。

 

また、人間は生きる過程において、さまざまな人と出会う。人間にとって、この出会いの全てが、生きることの糧になるものである。しかし、人間はこの出会いの全てから人のやさしさを発見できるとは限らない。人との出会いが、本当に人との出会いといえるにふさわしい出会いとなるには、人は何よりもまず、自分の人生をせいいっぱいに生きて、他人を、他の民族の人々を、自分や自分の民族と同じように大切にすることが必要である。そのためには、人はいつも、自分を見つめるように他人を見つめ、他人を見つめるように自分を見つめながら、その心を豊かにして、その目を澄んだものにしておくことが大切である。

 

この本の最後では、「生きることの意味」を書いている現在の著者により、生きる事の喜びや素晴らしさが語られて終了になる。しかし、後ろの解説にも書かれているように、この本が出版された半年後、著者の一人息子が自死したことにより、著者は再び絶望の淵に突き落とされることになる。この事がきっかけとなり、著者は親鸞(日本仏教の一つである浄土真宗の宗祖)に帰依する。そしてそこから、著者の宗教への道が始まる事になる。

 

「こころの時代」の中で、「生きることの意味」を書いた時はあのように思っていたけれど、今は考えがこのように変わっている、といった発言をしていたので、この後の高史明氏の本も読んでいきたい。

 

 

 

 

 

放送大学 データサイエンス・リテラシ基礎(‘22) 6-2 単元B1、6-3 単元B2 ファッション業界で活用されるデータサイエンス まとめ


放送大学オンライン授業データサイエンス・リテラシ基礎(‘22) 6-2 単元B1、6-3 単元B2内で行われていた、ファッション業界で活用されるデータサイエンスの話がかなり面白かったので自分用にまとめてみます。

 

 ・6-2 単元B1

エマ理永先生が過去に東京コレクションで出した作品の写真を、AIがラーニングした。そして、GAN(敵対性生成ネットワーク:データから特徴を抽出することで実在しないデータを生成したり存在するデータの特徴に沿って変換する生成モデル)を利用する事で、AI自身がまた新しいものをクリエイトしてきた。

しかし、そこで生成された作品は、エマ先生自身のクリエイトをなぞっているように感じられるもので、満足のできる所までは行かなかった。

 

そこで、エマ先生にとって自然界の象徴である貝殻(自然界のデータ)のデザイン1つ1つを、データに取り入れた。

そうする事で、発想の飛躍が起き、満足のいく作品を作る事ができた。

 

・6-2 単元B2

エマ先生は、科学に触れた時、自分達の分野(アートやデザイン)でもこれほどの発想の飛躍は無いと感じた。

例えば、科学は空間と時間を同じように扱う。

我々人間の知覚だけでは、空間と時間は全く違うもののように感じられている。

科学では、その空間と時間を同じように扱った事でさらなる飛躍が起きた。

また、 トポロジー(数学の一分野:位相幾何学)ではエマ理永さんが一番頭を悩ませている「角度と長さ」に捉われない。

その「捉われない幾何学」によって、エマ先生は素晴らしい作品を沢山生み出す事ができた。

知覚だけでは捉えられないものを脳が認識できるようにしてくれるのが、科学(サイエンス)と数学なのである。

 

デザイン業界では、失敗した事に対してすごく落ち込み、全人格を否定されたように思う人が多い。サイエンティスト達の素晴らしい所は、出た結果が失敗だったとしても、その中に素晴らしいデータが沢山入っていると捉える所である。

少しは悲しそうにするが、そこから立ち直る力が凄い。失敗したデータも清らかな美しいデータなのである。

 

データサイエンスも、目的が大事である。しっかりとした目的を持ってデータ・サイエンスを扱うことで、素敵な事が起きる。

アートの世界でも、今までは感性が重要視されて、思考する事がいけないことのように扱われていたが、是非データサイエンスの分野の人達に入ってきて新しい事を行ってほしい。どんどん、ファッションやアートの分野にいる人達も、データサイエンスを学んでほしい。そうする事で、きっと新しい創造が生まれてくる。

 

放送大学データサイエンス講座 (ouj.ac.jp)

 

 

 

 

「心」から自分の癒し方を考える 五木寛之「人生のレシピ 疲れた心の癒し方 (教養・文化シリーズ) 」 感想及びまとめ

概要

五木寛之独自の心の休め方である

・「妄想(これまでの人生で蓄えてきた経験を、自分の想像力で自由に膨らませて楽し

  むこと)」

・「思想(生きるとは、死ぬとは、といったテーマをじっくり掘り下げること)」

・「回想(これまでの人生を振り返ってみること)」

という「三つの想」の中で特に回想へ焦点を当てて、「移動」、「食」、「映画」といった各章のテーマに沿って五木寛之自身の人生について回想するという内容の本。

 

個人的に印象に残った所

個人的には、

P28~ 柳宗悦の「心偈」の中にある「見テ、知リソ、知リテ、ナ見ソ」という一句は、「見てから知るべきである、知識を得たのちに見ようとしてはいけない。」という意味である。しかしそれだけではなく、「見テ、知リソ」というのは、自分で見て判断しなければいけないが、見たからといって自分が知ってつもりになるのはダメであるという事を、「知リテ、ナ見ソ」というのは、事前の知識や先入観だけで物事を見てはいけないという事を言っている。

 

P82~ インド旅行の際に、仏陀がお腹を壊した時に弟子が水を汲みにいったという川の畔まで行き、「何千年前に仏陀がここで腹が痛いのを水をいっぱいに飲んで癒したのか」とそこに立って考えていた。そのとき、本の中にある仏陀の教えとかいうものではなくて、仏陀が生きて呼吸をしている人間という感じがした。仏陀の吐いた言葉が非常に身近に感じられて、「そうか、こういう人だったんだな」とあらためて思った。

 

という二つの話が特に印象に残った。

 

心の癒し方

回想とは感傷にふける事ではなく、広くて深い記憶の集積の中から、今現在とつながる回路を手探りするという積極的な行為である。辛かった時代の記憶というのも、「あのときにくらべれば」と、追い込まれた時に思うことのできる存在なのだとすれば、ありがたいものでもある。

 

ストレスが激しい時には、最も辛かった日々のことを思い出したり、嬉しかったことや幸せだった瞬間などのプラスの記憶を掘り起こしまざまざと実感する、といったことを行う。ストレスの多くは未来への不安から生じるものであり、「なんとかなる」「これまでなんとかなった」という実感を回復することで、ストレスは軽くなっていく。

 

また、回想で大事なことは「あの日は雨が降っていたな」や「そういえば外を見た時に、赤に花が雨に濡れていたな」といった情景である。情景を辿りながら、同じ思い出を繰り返し回想している間に、思い出が細部まで見えるようになり、ついには立体的にその思い出が浮かび上がってくるようになる。

 

そうやって、一人で思い出をいつくしみながら時間を過ごすことで、疲れた心を休めることができる。そして、うしろを振り返ることで、前へ進むエネルギーを生み出すことができる。

 

 

 

日記:放送大学に入学した。無職を卒業した。


放送大学に入学しました。

 

この大学を卒業した後に私がどうなるのかは全くわからないのですが、これにより長かった無職期間が終了しました。

 

放送大学を卒業した後にちゃんと手に職をつけられるように、自分が何をすれば良いのかを見極め、それを実行に移していけるよう心がけて生活していきます。

 

 

円覚寺管長が描いた仏教絵本 横田南嶺(著)横山由馨(イラスト)「パンダはどこにいる?」 感想

臨済宗円覚寺派総長が描いた絵本。

 

仏教では仏になる事を理想とする。仏の心とは慈しみや思いやりの心である。

禅の教えでは、人は皆元々仏であると説いている。ところが、人間は自分にではなく外側に向かって仏を求めてしまう。

 

この絵本の中で、パンダが自らパンダだと気付いた時に周りの人を癒す事ができたように、人も自分が仏であると自覚できれば、周りの人に安らぎを与える事が出来る。

特別な事をしなくても自分が仏だったと気付くためには、仏教の経典を読んだり坐禅を行うなどの地道な努力を通して、自らが仏の心を持って生まれていることを自覚する事が大切である。

 

 

我々は元々、仏の心を持っている素晴らしい存在であるというメッセージを伝えようとしている優しい絵本。