あらゆる事への上達のヒント 甲野善紀、前野隆司「古(いにしえ)の武術に学ぶ無意識のちから - 広大な潜在能力の世界にアクセスする“フロー"への入り口 」 4章まとめ
かなり面白かった。禅の公安である「百丈野狐(「本当に深く修行すれば因果の法則は超えれれるのか」を主題とした公案。因果に落ちないのも、因果をくらまし消すことができないのも、ちょうど丁半の賽の目が同時に出たようなもので、どんなに解釈しても全部間違っている、つまり矛盾した状態が同時に成り立っているということを説いた公案。)」と、アインシュタインによる「光量子仮説(物理学において光はずっと粒子だと思われていたのが、19世紀になって波であることがわかった。ところが、その後あらためて粒子としての性質が確認された。どちらなんだろうとみんなが困っていたところに、アインシュタインは「光は波であり、同時に粒子である。」という考え方を提唱した。これは、異なるものが同時にある、という新しい概念になった。」の2つをきっかけとして、「運命は完璧に決まっていて、同時に自由である。」という世界の構造を強烈に実感し、その実感を一から自分の手で確かなものとするために、21歳で武術の道を志した甲野善紀氏と、人間にとっての「幸福」とは何かを研究し続け、その中で2000年に「受動意識仮説(人間の意識と無意識に関する学説。すべての意思決定は意識する以前、いわば無意識下で行われていて、意識は受動的に過去になされた意思決定を合理的なものとしてエピソード記憶する役割しか持っていないのではないか、とする仮説。)」を提唱した前野隆司氏による、人間の無意識をテーマにした対談集。この本の中でも、個人的に特に面白かった4章(章題「無意識に学ぶ、無意識に教える」)についてをまとめた。
1.「一般的な努力」=「待ちぼうけ精神」、「人間の見取り能力」
甲野先生が武道の道を志した時、まず最初に合気道を学んでいた。しかし甲野先生自身は、その頃のことについて後悔していた時期がある。合気道を始めた当初の甲野先生は、「自分でわかっていないこと」を、誰かに言われるがまま表面的な形だけ真似て、繰り返しやっていただけであった。そしてその後、合気道に限らず、意識的に学んださまざまな話芸についても、同じ事が言えると気づいた。
子供が母国語を習得する時、子供は誰かから手取り足取り母国語を教わるのでもなく、その環境にしばらく身を置くだけで勝手に覚えてしまう。さらに言えば、人間における「見る」という機能もまた、誰かに教わるわけでもなく、各々が自然に獲得したものである。このようにして身に付けた技能や知識は、本当にその人の力になるのである。これに対して、自分でもよくわからないまま、誰かに「こうやるんだよ」と教わったものは、それらの多くは反復練習を伴うが、こうやって習得したものは母国語のように「身につく」というレベルへは到達しない。 つまり、昔の職人が「技を盗め」といったのは正解だったということである。幼な子が最初の言葉を覚えていくとき、そこに誰かの強制は存在しない。反復練習をしたとしても、それは自発的なものである。そうやって身に付けた技能は自在に応用することだってできる。これはおそらく無意識に習得するからである。
それに対して、自覚的に意識で覚えよう、または覚えさせようとすると、粉のようには身につかない。まるでアクセルとブレーキを同時に踏むような事になってしまう。殆どの場合、自発性のない反復稽古は、まるで童謡の「待ちぼうけ」の歌詞のような「待ちぼうけ精神」である。せっせと努力しているから、一見「待ちぼうけ」ではないように見えるところに落とし穴がある。動いているから、努力しているから、きっと良いことがあるだろうというわけであるが、そこに創造性は存在しない。これは精神における待ちぼうけである。コーチに言われた通り、ただ繰り返しやっているだけ、という事がすごく多い。自分なりに考えて工夫する事で習得すれば、ただの反復稽古よりもずっと良い動きが身につくのに、誰もそれを行わない。
先述した、昔の職人が「わざは見て盗め」と言っていたというエピソードが象徴するように、昔の人々は見て覚える能力、見取り能力が非常に高かった事が伺える。また、何十年もの前の話であるが、オーストラリアの先住民であるアポリジニは、西洋人と同行して2日くらい自動車に一緒に乗っていると、それだけでだいたい車が運転できるようになった、というエピソードが存在する。このように昔の人々は「教わる」ではなく、「見る」事を通して技術を習得していたのである。
2、「勉強するな」という親、隠徳を積む
現代では、努力することに価値があり、誰でも努力するべきだとされている。親や教師やスポーツのコーチ、そして武道の指導者までもが、努力の大切さを説いている。しかし一方で、聖書には「祈る姿は戸を閉め、人に見せるべきではない」と書かれている。そして東洋にも、「陰徳を積む」という言葉が存在する。これらの言葉は、「努力は人知れずコツコツやるものだ」という事を意味していると思われる。少なくとも、「努力」は他人に見せたり誇ったりするものではない。ましてや、自分以外の誰かに「努力しなさい」と強要するというのはもっての他である。むしろ「努力は恥ずかしいものだ」と考えて、人知れず、忍んで行うのが健全な状態である。何より、他人に「努力しろ」といわれるより、自分で取り組んだほうがいろいろ工夫できるし、身に付くはずである。
ある人の父親は、「勉強しているヒマがあったら手伝え」というタイプだった。勉強に関しては、「学校の授業があるのだから、その場で理解して覚えるのが当たり前だ」と考えるくらい頭のいい人だった。そして、そういう家で育ったその人は、親の目を盗んで、授業及び予習復習を短時間のうちにものすごく集中して頑張った。そしてその結果、その人は「それのおかげで学業が凄く身に付いた。」と言っていた。
「家で勉強してはいけない」という親は、ときどき存在したようであるが、そういった親の子供は必死に勉強をを行っていた。隠れてやっているので、短い時間にものすごく集中しなくてはいけない。「やれ」ではなくて「やるな」だから、「勉強ができるように努力している」なんて気配にも出すことはできない。その結果、とても濃密な勉強ができたのである。
3、「易→難の順に学ぶカリキュラムは万能ではない」、「谷を飛び越える」、「複雑系の科学」
学校教育に限らず、世の中にある多くの学習プロセスは、易しいものから難しいものへと順番に学ぶという形式を取っている。これは勿論、何事においても有効な教育法であるが、一方でこのやり方では絶対に行けない世界が存在する事も確かである。それは易→難の過程がなだらかではなく、その途中で、大きく飛び越えなくてはいけない谷のようなものがあるケースである。例えば、甲野先生の「影観法」や「響きを通す」といった武術の術理は、単純な技から段々と難しい技へと順番に学んでいくことでは決して習得できるものではない。そして当然のことながら、ただ繰り返すだけの反復練習では、何年やってもたどり着けない。習得するためには、ある意味、違う岩棚へと深い谷をジャンプするような飛躍が必要なのである。
それはつまり、質が変わらないといけないという事である。反復練習が目指しているのは、いわゆる「量質転化」である。これはつまり量が増えれば、やがて質が転化するという考え方である。勿論それが有効な場合も存在するが、それでは決して届かない世界がある。むしろ繰り返すことで、上達どころか逆に、古伝の剣術でいう「下達」、つまり、一向に上達せずそれどころか、マンネリ化した稽古でますます迷いが深くなってしまったり、「自分にはできない」というマイナスな気持ちが刷り込まれてしまう事も起こりえる。やはり単純な易から難ではない、深い谷をジャンプするような飛躍がないと質の違う動きは得られないのである。
生物の進化も、そうなっていると思われる。チンパンジーと人間は、共通の先祖から役700万年前に分かれたとされている。その進化のプロセスも、易→難のようななだらかなものではなかったのではないか。ヒトという類人猿をはっきり隔てるような決定的な出来事が起こった、そういったジャンプするレベルの飛躍がないと、人への進化にどうにも納得する事ができない。
前野先生がロボットの研究をしていたころ、「進化と学習」に興味をもって、コンピュータのなかで進化をシュミレーションする「進化的計算」というのをやっていたことがあったそうである。それは複雑系の科学に基づくシンプルなシュミレーションである。コンピュータで実際にシュミレーションしてみると、変化がカオスになる段階があって、そこから断続的に進化が起きることが見て取た。カオスとは、一見ランダムに見えるような混沌のことを言う。複雑系の科学という学問分野では、複雑なシステムではカオスが生じることが知られている。かつてのカンブリア爆発のような現象がおこり、そのなかから優れた種が現れて、一気に進化が進む。確率論では考えられそうもないことを、複雑系の科学を用いれば説明することができる。前野先生は、コンピュータシュミレーションという形をこれを体験しているので、進化をある程度、明確にイメージする事ができた。つまりカオスが起きると、いったん、ワケがわからなくなる。そして、そこから進化が起こる。
それはやはり、進化は徐々に起こるのではないというのは、本当にその通りなのである。つまりマクロに見ると、ドンっと大きく進化するときが断続的に現れるように見えるが、その一瞬の間にカオスが生じているのである。
4、フロー、興味と緊張、西洋型と東洋型
甲野先生は近年、「フロー(人間が自分自身の心理的エネルギーを100%、そのとき取り組んでいる対象に注ぎ、チャレンジとスキルが釣り合う状況で物事に没入する体験。ゾーン体験とも呼ばれる。)」の研究を精力的に行っている。その研究の中で見つかった、人間が物事を劇的に上達するための条件は、1、取り組んでいる対象に強い興味がある事 2、それが命がけである事 の2つであった。つまり、「興味」と「緊張感」の両者が揃っている時、人間は抜群に成長するという事である。その中で、この2つの条件の元で、常識では考えられない動きを可能にした人物として、甲野先生がよく例に出すのは、中井亀治郎という人物である。この人は、奈良県の十津川にいた剣客である。この中井亀治郎について、実際に残っているエピソードのひとつとして、土砂崩れ跡の斜面の上方から醤油樽を転がして、それを棒で叩きながら追いかけ、谷底まで駆け下りたというものがある。落石のような速度で転がり落ち、しかも不規則にバウンドする物体を叩くわけで、2メートルと離されたらできない。では何故、そのような超人的な動きができたのかというと、子供のころからサルが好きで、サルと遊びたいと思って木から木へ飛び移ってサルを追いかけるという事をやっていたからである。サルを追いかけるのも、やっている本人は楽しくて仕方がない。しかも木から木へ飛び移ったり、崖を駆け下りるのだから命がけである。まさに楽しさと命がけが備わっているのだから、先述した2つの条件を満たしており、上達するには最適な環境であった。
サルを追いかけるという事は、「できない」なんてことは考えもしない子どもだったからやれた事なのであろう。そして、このできるかできないか、という判断は、近代西洋型の分割・分析・分断思考である。人間は、ロボットや機械とは全く違う構造をしている。ロボットや機械は単純である。単純につくっておかないと、壊れた時の部品交換が大変なので、「ひとつの要素はひとつの機能」というのが機械設定の原則になっているのがその一因である。だから、例えばひとつのアクチュエータにひとつのジョイントが対応するような設計をする。ところが、人間の身体は、ひとつの筋肉にひとつの動き、というような一対一対応になっていない。たくさんの筋肉でたくさんの動きを作り出す冗長構造である。これはまさに複雑系である。このような人間の構造を活かしきるのが古来東洋型、なるべく単純化して機械のように合理的に動かすのが近代西洋型、というように捉える事ができる。そしてこれは、身体だけでなく、心においても同じことが言える。単純かつ合理的に、型にはめて、善悪、正誤、自他、敵味方の判断をして分断をうむような心をつくってしまうと、多様な環境に繊細に対応することは難しい。一方、緊張感と集中力のある状態を繰り返すことによって、繊細かつ細かい心をつくっておくと、小さな変化にも総合的かつ機敏に対応することができるのである。
0096【ストレッチ・筋トレの注意点】緊張・弛緩のグラデーションをいかに細やかにするかが重要 Yoshinori Kono/Ancient Martial arts master 武術/剣術
「教わる」ことの落とし穴 武術研究者・甲野善紀が語る指導と上達の矛盾について(DVD『甲野善紀 技と術理2019 「教わる」ことの落とし穴』より)
悪習の改善法とは BJ・フォッグ「習慣超大全」・・・悪習の章のまとめ
「習慣超大全」
キーワード:1、何かを行う 2、結び目をほどく 3、自分を褒める 4、根本に向き合う 5すぐに結果を求めない 6、深刻に考え込まず楽しんで取り組む・・・焦らず気楽に落ち着いて
悪習の改善について言及している章が特に面白かったのでまとめた。
この章では、実際に著者の講座に参加した生徒の中の一人であるジュニの体験談を通して、悪習を改善する方法を学ぶという構成が取られている。
ジュニは仕事の激務や、自閉症の息子の育児、そして母親の死といった過剰なストレスが重なった事により、過剰な砂糖菓子の摂取を日常的に行うようになっていた。
まず最初にジュニは、日記をつける、ソーシャルメディアで友達と連絡を取り合う、といった前向きな習慣を身に付ける事を行った。
何かをやめたいならば、まずは「悪習をやめる」事よりも、「何かを行う」事に意識を向ける事が重要である。そしてそれは、できれば楽しさを感じるもので、また行う事が容易なものであるといい。
そして前向きな習慣が積み重なり、心が癒されていく事で、ジュニは悲しみを昇華しながら母を悼む事ができるようになった。ストレスを癒すために重要な事は、苦しみの根本に対し柔らかく向き合う事である。
そしてジュニは、達成感の重要性を知っていたため、一日でも砂糖菓子を食べない日があった時は、必ず「祝福(何かを少しでもできた事があったら、何らかの軽い動作またはハンドサインを行う事によって、自分自身を褒めるという手法。別の章で詳しく言及されている。」を行うようにした。そうした経験を積み重ねる事で、やがてジュニは一週間砂糖菓子を食べずとも過ごせるようになった。
またジュニは、柔軟と反復の重要性を理解していた。その為、時に砂糖菓子を食べてしまう時があったとしても、自分を責めなかった。悪習に向き合うためには、自分を思いやる事が大切である。こういった取り組みを続ける事で、やがてジュニは砂糖菓子の渇条摂取を克服する事ができた。
我々は悪習に向き合う際、必ず「悪習を断つ」という表現を用いてしまう。そしてこの「断つ」という表現によって、我々は悪習に対し、「やめると決めたらそこから一日もやらない」または「一時的に大きな力を加えれば悪習は消滅する」といったイメージを持ってしまっている。しかし実際は、悪習がたった一度力を加えただけで解消されることはまずあり得ない。にも関わらず我々は、これらのイメージによって、誤ったやり方で悪習を解消しようとして挫折し、またそれによって自分に対して罪悪感や無力感を感じて、日々心を疲弊させている。
そしてここでは、「悪習の結び目をほどいていく」という表現が提案されている。つまり、大きな悪習(ジュニの場合は「砂糖菓子の過剰摂取」)を小さな悪習の複合体として捉えて、体系的に取り組み、いちばんほどきやすい結び目を探すのである。
P392

P393

このように、「行動の群れ」の図を作って具体化してみて、その中で一番行う事が簡単だと思われる小さな悪習の解消に取り組む。
ジュニも一番小さな習慣から取り組むことで、少しずつ達成感を積み重ねることができた。そしてそれが大きな励みになり、やがて大きな悪習(砂糖菓子の過剰摂取)の解消を達成することができた。
そして最も重要な事は、深刻に考え込まず、楽しんで取り組むことである。悪習を改善しようとすると人はどうしても、「やめたいのにやめられない自分」が目に入って心を痛めてしまう。それでも、自分の小さな変化に目を向けたり、小さい前向きな習慣を積み重ねていく事で、喜びや楽しさを感じながら、悪習の改善に取り組むことができる。何事も、そこに楽しさや喜びが無ければ継続することはできないのである。
廣野由美子 批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書) 感想及びまとめ
放送大学で文学批評の授業を取ったものの、テキストが難解だったので、もう少し易しい所から始めたいと思ってこの本を読んだ。
分析する対象の作品を「フランケンシュタイン」の一つに絞って、「小説技法」と「批評理論」という二つの視点から作品を読解していくという内容の本。
この本でも、放送大学のテキストと同じように、文学批評における基本的なトピックが網羅的に触れられているが、新書サイズなので一つ一つのトピックの概要が簡潔にまとめられていることや、分析する作品が一つに絞られているということや、「フランケンシュタイン」という有名な作品を扱っているということ(作品に直接触れた事が無くても、何となくの物語の大枠を知っている。)のおかげで、かなり読み易かった。
個人的には、「性格描写」、「間テクスト性(フランケンシュタインはどのような作品からの影響を受けているのか)」、「「フランケンシュタイン」のユング的解釈」の辺りの記述が面白かった。
一方で、いくらわかりやすく書かれているからといって、しっかりこの本の内容が身に付いているかと言われたら微妙である。やはり、自分で実際に批評を行ったり、自分で物語を考えたりしないと、批評の知識は身に付かないのだなと思った。なので今後何らかの形を通して、この本に書かれている事を血肉に変えていきたい。
「仏教3.0」とは何なのか 藤田一照、山下良道「アップデートする仏教 (幻冬舎新書)」 感想及びまとめ
「葬式仏教」という言葉が存在しているように、現代の日本仏教は外見だけを残して形骸化していると言っても過言ではない。「心の病院」であったはずの仏教は現在、心の苦しみを解決する具体的で有効な手段を殆ど説くことはない。この現代の日本仏教を「仏教1.0」とする。
それに対して「仏教2.0」は、ここ十数年の間に定着してきた外来の仏教(本書ではテーラワーダ仏教が念頭に置かれている)のことを指している。「仏教2.0」の特徴は、徹底的なメソッド化にある。「仏教2.0」では、「心を観察する」という仏教独特の方法をきちんと説かれ、またそれにより人生万般の問題を解決できると公言される。「マインドフルネス」という言葉が代表するように、今欧米で爆発的に流行している瞑想メソッドなども、この「仏教2.0」がベースになっている。
本書では、日本と海外の両方で、坐禅の修行及び指導を行った経験を持つ二人の禅僧が、「仏教1.0」「仏教2.0」で感じた行き詰まりを通して、それらの問題点を乗り越えた「仏教3.0」を模索する。そして、「仏教3.0」を提示する事で、本当に効果が実感できて人々の救いになるような仏教像を再び立ち上げようというのが本書のテーマである。
書かれている事が非常に難解だったので、全てを吸収できたわけではないのだが、私が重要だと思った記述を、ここではいくつかまとめておく。
①「頑張らないこと」が宗教の醍醐味
曹洞宗(日本における禅宗の一つ)には「只管打坐」という考えがある。
「只管打坐」とは、何かの目的の手段として坐禅するのではなく、ただひたすらに坐禅する、という意味である。曹洞宗においては、この「只管打坐」こそが「安楽の法門(安らかで穏やかな状態)」であるとされている。
アメリカ人にこの只管打坐を指導すると、「よーし、只管打坐をやってやるぞ!」といったように、「俺」が「頑張って」しまうので只管打坐ができなくなってしまい、「安楽の法門」ではなくなってしまう。
多くの西洋人の根幹には「自分が努力しないのに何かができるなんておかしい。頑張らない人が得をするなんて不公平だ。」という信念が存在している。
なので「自分には値しないほどの素晴らしいものが一方的に与えられる」という仏教的な世界観、つまり「他から受け取る感じ」をどうしても共有することができない。
「自分で頑張らないほうが坐禅になるんだよ」なんて言うと、「そんなこと本当なのか?」という顔をされてしまう。しかし、それこそが宗教の醍醐味であり、浄土真宗的な言い方をすれば、「他力」の世界なのである。
②「雲」と「青空」
本書の執筆者の一人である山下良道氏は、日本の「安泰寺」という修行道場で、内山興正老師に師事していた。そこで、山下氏は内山老師に「君の苦しみの原因は「思いの過剰」だ」と指摘される。それから、色々な先生方との出会いによって「思いの手放し」の具体的なやり方が「マインドフルネス」であると知った山下氏は、それを本格的に学ぶために全てを捨ててビルマへ向かった。そして、ビルマの瞑想センターで朝から晩まで瞑想を行っていた。
「マインドフルネス」とは「気づく」ということである。
では何故、「気づく」ことが「思いの手放し」になるのであろうか。
この疑問は、「気づく」主体がはっきりしないことにより生まれる。
例えば、アーナパマ・サティとして広く知られ実践されている呼吸瞑想では、「呼吸に気づいていなさい」と言われる。つまり、「息を吐きながら吐いている息に気づいている」というその状態を続けなさい、ということである。しかし、いくら頭で考えても、呼吸に「気づいて」いることと、呼吸について「考えて」いることの違いが見えてこない。だから、呼吸に気づくことで思いが手放せると言われても、何かがすっきりしない。
この呼吸瞑想を実践していてわかるのは、シンキング(思い)がある世界で気づくというのは不可能である、ということである。(日本語の「思い」という言葉には情緒的な意味も含まれてしまうのでここからは英語の「シンキング(thinking)」及び「シンキング・マインド」として表現する)
つまり、「シンキング」と「気づく」は別の次元に存在するものなのである。そして、「シンキング」が落ちたところでしか呼吸に「気づく」ことはできないのである。よって、呼吸に気づいている主体はシンキングの他にある、ということになる。
「シンキング・マインド」は主体と客体を分けていた根本的なものである。マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づくことにある。
では、「シンキング・マインド」が落ちた後に、「気づいて」いる主体とは一体どのようなものなのか。山下氏は、これを「雲」と「青空」の例を用いて表現している。
「シンキング・マインド」と「肉体」できた自分を「雲」とすると、今まではずっと自分は雲だと思って生きてきた。しかし、あるとき「雲」は一斉に無くなってしまった。しかし、「青空」になってしまった「青空」を認識できているわたしがいた。もしわたしが「雲」だったならば、「雲」が無くなった後のを認識できていないはずである。
そして、その時に「じゃ、わたしって誰?」という問いを発すれば、わたしこそが「青空」であったという答えが、導かれるのである。
「青空」であるわたしの中には、当然「雲」も浮かんでいる。つまり「雲」もわたしの一部なのである。しかし、今までとはパースペクティブ(全体の見通し)が違っている。今までは「雲=わたし」であった。しかし今では、わたしの本質は「青空」であり、その中に「雲」が浮かんでいるということになるのである。(初期仏教の経典である「アビダルマ」には、自分が「青空」であると初めて認識したときに生じるものが「道智」、「道智」を認識し続けることが「果智」として表現されている)
③「仏教3.0」とは何か
「仏教2.0」の仏教哲学では、青空は条件によって作られていないもの、つまり無為法に分類されている。テーラワーダの教学ではこの世界ではこの世界は四つの構成要素によって作られている。
その四つとは、心、心所、色、涅槃である。
さらにもう一つまとめると、心と心所を合わせて名(ナーマ)と言う。名は精神的要素の事である。またそれに対し、色は物質的要素である。つまり、この世界は、精神的要素、物質的要素、涅槃の三つということになる。最初の二つ、名と色は条件によって作られたもの、つまり有為法である。そして涅槃は、条件によって作られていないから無為法ということになる。
先の雲と青空の例で言えば、雲が有為法であり、青空が無為法である。この分類法では有為法と無為法はまったく別のカテゴリーであり、そこには何の繋がりもない。
テーラワーダ仏教において我々はどこまでいっても有為法なのである。よって、無為法である涅槃は我々にとっては常に外部にあることになる。
大乗仏教には「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」という言葉がある。生死というのは有為法のことであるから、それが即、涅槃というのはテーラワーダ仏教においてはとんでもない話になってしまう。ここにテーラワーダ仏教と大乗仏教の決定的な違いがある。つまり、テーラワーダ仏教にとって有為法と無為法は断絶されたものであるが、大乗仏教にとって有為法と無為法は繋がったものなのである。
山下氏が修行していたビルマの瞑想センターでは、テーラワーダ仏教による方法論の体系化された瞑想修行を、多くの人々が実践していた。しかし、その瞑想修行で得られるとされているはずの成果を実際に得られる人間は、山下氏以外に殆ど存在しなかった。
山下氏は、この理由が日本時代に学んでいた大乗仏教の教えにあるとしている。
山下氏は、ビルマでの瞑想修行の中で、「わたし自身が青空である」と知った時に、初めて大乗仏教の教えが自分の体験として理解できたのである。
つまり、先の「青空の中に雲がある。青空が私の本質であるが雲も私の一部である。」という例は、大乗仏教における「わたしにおいて有為法と無為法が一つになっている」という思想に他ならない。有為法即無為法は無為法即有為法であり、これは般若心経で言えば、まさに「色即是空 空即是色」なのである。
ここから、なぜ大乗仏教が興起しなければいけなかったのかがはっきりと見えてくる。瞑想実践の中で無為法と有為法が二つ別々のままではどうにもならなくなったその袋小路を打破して、大胆に有為法と無為法が即の関係で繋がっているという立場が出てきたわけである。
そう考えると、法華経や中国の禅や道元禅師(曹洞宗の開祖)が強調していることの意味がもっと明確になってくる。また、「諸法実相(しょほうじっそう)」「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」「現成公案(げんじょうこうあん)」という言葉も全てそこから理解することができる。つまり、これらは「仏教2.0」を乗り越えるための鍵なのである。
「仏教2.0」が行き詰った理由は、「有為法」である自分が一生懸命に瞑想して、別の世界である「無為法」に行こうとしたからなのである。瞑想にしろ坐禅にしろ、「無為法である自分」に目覚めるところからしか始まらないのである。
「仏教3.0」とは、何か新しい思想などではなく、ずっと昔から存在していた大乗仏教の思想そのものなのである。
道元禅師の思想を紐解く上で重要になる考え方の一つに「修証一等」というものがある。これは「悟り」と「修行」を等しいもの(一等)として捉えるという意味である。人間は本来悟っているからこそ、本来的悟りを自覚的に顕現するために修行が必要である、ということである。この考えは、当時の日本仏教界で支配的だった天台本覚論(人間とは本来的に仏なのであるから、特別な修行は必要ないという思想。修行不要論。)ではあきたらなかった道元禅師が、禅宗に転向して打ち立てた修行論である。
つまり道元禅師の思想は、具体的な方法論を説かない「仏教1.0」の思想を超えようとする形で誕生したのである。しかし、それと同時に、今の自分とは全く別の世界に行こうとする「仏教2.0」の思想を超えるための思想として、本書では扱われているというのは非常に興味深い。「仏教3.0」とは、「仏教1.0」と「仏教2.0」の間に存在している、つまり「中道」に位置している思想なのである。
高史明「生きることの意味」 感想及びまとめ
nhkの「こころの時代」で高史明(コ・サミュン)氏が喋っている映像を見て、興味を持ったので読んだ。
在日朝鮮人二世として戦時下の日本に生まれた高史明氏による幼少期の自伝。
差別、極貧生活、劣悪な環境による弟との死別、父親の自殺未遂など、悲惨な出来事の数々を受け、著者は次第に凶暴な性格へと変わりはじめ、毎日のように非行を繰り返す日々をおくっていた。それでも、悲惨な出来事の数々から、「生きることの喜び」や「人のやさしさ」を感じ取ったり、また在日朝鮮人かつ非行少年である著者へ差別せずに向き合ってくれた阪本先生との出会いもあり、著者も人としてのやさしさを次第に取り戻していく。
それでもこの自伝は、日本の敗戦により世の中の価値観が180度変わり、その事がきっかけで著者自身のアイデンティティも崩壊し、それにより著者が自暴自棄になって学校を中退し、深い混沌の中で新しい歩みを始める所で終了する。しかし、その生きることが不安そのものである状況からの出発こそが、著者にとっての生きることの意味を、自分自身で探求していく歩みのはじまりでもあった。
著者のつらい出来事一つ一つは、苦しい記憶であると同時に、著者に人間のやさしさを教えてくれた。人間の生きぬいていく力は、どこか他から与えられるものではなく、辛い出来事の中から人間がみずから汲みだしていくものである。そして、安らぎとは苦しみを生きぬいていく人間が苦しみを乗り越えていくところにやどるものである。
また、人間は生きる過程において、さまざまな人と出会う。人間にとって、この出会いの全てが、生きることの糧になるものである。しかし、人間はこの出会いの全てから人のやさしさを発見できるとは限らない。人との出会いが、本当に人との出会いといえるにふさわしい出会いとなるには、人は何よりもまず、自分の人生をせいいっぱいに生きて、他人を、他の民族の人々を、自分や自分の民族と同じように大切にすることが必要である。そのためには、人はいつも、自分を見つめるように他人を見つめ、他人を見つめるように自分を見つめながら、その心を豊かにして、その目を澄んだものにしておくことが大切である。
この本の最後では、「生きることの意味」を書いている現在の著者により、生きる事の喜びや素晴らしさが語られて終了になる。しかし、後ろの解説にも書かれているように、この本が出版された半年後、著者の一人息子が自死したことにより、著者は再び絶望の淵に突き落とされることになる。この事がきっかけとなり、著者は親鸞(日本仏教の一つである浄土真宗の宗祖)に帰依する。そしてそこから、著者の宗教への道が始まる事になる。
「こころの時代」の中で、「生きることの意味」を書いた時はあのように思っていたけれど、今は考えがこのように変わっている、といった発言をしていたので、この後の高史明氏の本も読んでいきたい。
放送大学 データサイエンス・リテラシ基礎(‘22) 6-2 単元B1、6-3 単元B2 ファッション業界で活用されるデータサイエンス まとめ

放送大学オンライン授業データサイエンス・リテラシ基礎(‘22) 6-2 単元B1、6-3 単元B2内で行われていた、ファッション業界で活用されるデータサイエンスの話がかなり面白かったので自分用にまとめてみます。
・6-2 単元B1
エマ理永先生が過去に東京コレクションで出した作品の写真を、AIがラーニングした。そして、GAN(敵対性生成ネットワーク:データから特徴を抽出することで実在しないデータを生成したり存在するデータの特徴に沿って変換する生成モデル)を利用する事で、AI自身がまた新しいものをクリエイトしてきた。
しかし、そこで生成された作品は、エマ先生自身のクリエイトをなぞっているように感じられるもので、満足のできる所までは行かなかった。
そこで、エマ先生にとって自然界の象徴である貝殻(自然界のデータ)のデザイン1つ1つを、データに取り入れた。
そうする事で、発想の飛躍が起き、満足のいく作品を作る事ができた。
・6-2 単元B2
エマ先生は、科学に触れた時、自分達の分野(アートやデザイン)でもこれほどの発想の飛躍は無いと感じた。
例えば、科学は空間と時間を同じように扱う。
我々人間の知覚だけでは、空間と時間は全く違うもののように感じられている。
科学では、その空間と時間を同じように扱った事でさらなる飛躍が起きた。
また、 トポロジー(数学の一分野:位相幾何学)ではエマ理永さんが一番頭を悩ませている「角度と長さ」に捉われない。
その「捉われない幾何学」によって、エマ先生は素晴らしい作品を沢山生み出す事ができた。
知覚だけでは捉えられないものを脳が認識できるようにしてくれるのが、科学(サイエンス)と数学なのである。
デザイン業界では、失敗した事に対してすごく落ち込み、全人格を否定されたように思う人が多い。サイエンティスト達の素晴らしい所は、出た結果が失敗だったとしても、その中に素晴らしいデータが沢山入っていると捉える所である。
少しは悲しそうにするが、そこから立ち直る力が凄い。失敗したデータも清らかな美しいデータなのである。
データサイエンスも、目的が大事である。しっかりとした目的を持ってデータ・サイエンスを扱うことで、素敵な事が起きる。
アートの世界でも、今までは感性が重要視されて、思考する事がいけないことのように扱われていたが、是非データサイエンスの分野の人達に入ってきて新しい事を行ってほしい。どんどん、ファッションやアートの分野にいる人達も、データサイエンスを学んでほしい。そうする事で、きっと新しい創造が生まれてくる。
「心」から自分の癒し方を考える 五木寛之「人生のレシピ 疲れた心の癒し方 (教養・文化シリーズ) 」 感想及びまとめ

概要
五木寛之独自の心の休め方である
・「妄想(これまでの人生で蓄えてきた経験を、自分の想像力で自由に膨らませて楽し
むこと)」
・「思想(生きるとは、死ぬとは、といったテーマをじっくり掘り下げること)」
・「回想(これまでの人生を振り返ってみること)」
という「三つの想」の中で特に回想へ焦点を当てて、「移動」、「食」、「映画」といった各章のテーマに沿って五木寛之自身の人生について回想するという内容の本。
個人的に印象に残った所
個人的には、
P28~ 柳宗悦の「心偈」の中にある「見テ、知リソ、知リテ、ナ見ソ」という一句は、「見てから知るべきである、知識を得たのちに見ようとしてはいけない。」という意味である。しかしそれだけではなく、「見テ、知リソ」というのは、自分で見て判断しなければいけないが、見たからといって自分が知ってつもりになるのはダメであるという事を、「知リテ、ナ見ソ」というのは、事前の知識や先入観だけで物事を見てはいけないという事を言っている。
P82~ インド旅行の際に、仏陀がお腹を壊した時に弟子が水を汲みにいったという川の畔まで行き、「何千年前に仏陀がここで腹が痛いのを水をいっぱいに飲んで癒したのか」とそこに立って考えていた。そのとき、本の中にある仏陀の教えとかいうものではなくて、仏陀が生きて呼吸をしている人間という感じがした。仏陀の吐いた言葉が非常に身近に感じられて、「そうか、こういう人だったんだな」とあらためて思った。
という二つの話が特に印象に残った。
心の癒し方
回想とは感傷にふける事ではなく、広くて深い記憶の集積の中から、今現在とつながる回路を手探りするという積極的な行為である。辛かった時代の記憶というのも、「あのときにくらべれば」と、追い込まれた時に思うことのできる存在なのだとすれば、ありがたいものでもある。
ストレスが激しい時には、最も辛かった日々のことを思い出したり、嬉しかったことや幸せだった瞬間などのプラスの記憶を掘り起こしまざまざと実感する、といったことを行う。ストレスの多くは未来への不安から生じるものであり、「なんとかなる」「これまでなんとかなった」という実感を回復することで、ストレスは軽くなっていく。
また、回想で大事なことは「あの日は雨が降っていたな」や「そういえば外を見た時に、赤に花が雨に濡れていたな」といった情景である。情景を辿りながら、同じ思い出を繰り返し回想している間に、思い出が細部まで見えるようになり、ついには立体的にその思い出が浮かび上がってくるようになる。
そうやって、一人で思い出をいつくしみながら時間を過ごすことで、疲れた心を休めることができる。そして、うしろを振り返ることで、前へ進むエネルギーを生み出すことができる。






