森崎日記

読書メーターから来ました

「仏教3.0」とは何なのか 藤田一照、山下良道「アップデートする仏教 (幻冬舎新書)」  感想及びまとめ

「葬式仏教」という言葉が存在しているように、現代の日本仏教は外見だけを残して形骸化していると言っても過言ではない。「心の病院」であったはずの仏教は現在、心の苦しみを解決する具体的で有効な手段を殆ど説くことはない。この現代の日本仏教を「仏教1.0」とする。

それに対して「仏教2.0」は、ここ十数年の間に定着してきた外来の仏教(本書ではテーラワーダ仏教が念頭に置かれている)のことを指している。「仏教2.0」の特徴は、徹底的なメソッド化にある。「仏教2.0」では、「心を観察する」という仏教独特の方法をきちんと説かれ、またそれにより人生万般の問題を解決できると公言される。「マインドフルネス」という言葉が代表するように、今欧米で爆発的に流行している瞑想メソッドなども、この「仏教2.0」がベースになっている。

 

本書では、日本と海外の両方で、坐禅の修行及び指導を行った経験を持つ二人の禅僧が、「仏教1.0」「仏教2.0」で感じた行き詰まりを通して、それらの問題点を乗り越えた「仏教3.0」を模索する。そして、「仏教3.0」を提示する事で、本当に効果が実感できて人々の救いになるような仏教像を再び立ち上げようというのが本書のテーマである。

 

書かれている事が非常に難解だったので、全てを吸収できたわけではないのだが、私が重要だと思った記述を、ここではいくつかまとめておく。

 

①「頑張らないこと」が宗教の醍醐味

曹洞宗(日本における禅宗の一つ)には「只管打坐」という考えがある。

「只管打坐」とは、何かの目的の手段として坐禅するのではなく、ただひたすらに坐禅する、という意味である。曹洞宗においては、この「只管打坐」こそが「安楽の法門(安らかで穏やかな状態)」であるとされている。

アメリカ人にこの只管打坐を指導すると、「よーし、只管打坐をやってやるぞ!」といったように、「俺」が「頑張って」しまうので只管打坐ができなくなってしまい、「安楽の法門」ではなくなってしまう。

多くの西洋人の根幹には「自分が努力しないのに何かができるなんておかしい。頑張らない人が得をするなんて不公平だ。」という信念が存在している。

なので「自分には値しないほどの素晴らしいものが一方的に与えられる」という仏教的な世界観、つまり「他から受け取る感じ」をどうしても共有することができない。

「自分で頑張らないほうが坐禅になるんだよ」なんて言うと、「そんなこと本当なのか?」という顔をされてしまう。しかし、それこそが宗教の醍醐味であり、浄土真宗的な言い方をすれば、「他力」の世界なのである。

 

②「雲」と「青空」

本書の執筆者の一人である山下良道氏は、日本の「安泰寺」という修行道場で、内山興正老師に師事していた。そこで、山下氏は内山老師に「君の苦しみの原因は「思いの過剰」だ」と指摘される。それから、色々な先生方との出会いによって「思いの手放し」の具体的なやり方が「マインドフルネス」であると知った山下氏は、それを本格的に学ぶために全てを捨ててビルマへ向かった。そして、ビルマの瞑想センターで朝から晩まで瞑想を行っていた。

 

「マインドフルネス」とは「気づく」ということである。

では何故、「気づく」ことが「思いの手放し」になるのであろうか。

 

この疑問は、「気づく」主体がはっきりしないことにより生まれる。

例えば、アーナパマ・サティとして広く知られ実践されている呼吸瞑想では、「呼吸に気づいていなさい」と言われる。つまり、「息を吐きながら吐いている息に気づいている」というその状態を続けなさい、ということである。しかし、いくら頭で考えても、呼吸に「気づいて」いることと、呼吸について「考えて」いることの違いが見えてこない。だから、呼吸に気づくことで思いが手放せると言われても、何かがすっきりしない。

 

この呼吸瞑想を実践していてわかるのは、シンキング(思い)がある世界で気づくというのは不可能である、ということである。(日本語の「思い」という言葉には情緒的な意味も含まれてしまうのでここからは英語の「シンキング(thinking)」及び「シンキング・マインド」として表現する)

 

つまり、「シンキング」と「気づく」は別の次元に存在するものなのである。そして、「シンキング」が落ちたところでしか呼吸に「気づく」ことはできないのである。よって、呼吸に気づいている主体はシンキングの他にある、ということになる。

 

「シンキング・マインド」は主体と客体を分けていた根本的なものである。マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づくことにある。

 

では、「シンキング・マインド」が落ちた後に、「気づいて」いる主体とは一体どのようなものなのか。山下氏は、これを「雲」と「青空」の例を用いて表現している。

 

「シンキング・マインド」と「肉体」できた自分を「雲」とすると、今まではずっと自分は雲だと思って生きてきた。しかし、あるとき「雲」は一斉に無くなってしまった。しかし、「青空」になってしまった「青空」を認識できているわたしがいた。もしわたしが「雲」だったならば、「雲」が無くなった後のを認識できていないはずである。

そして、その時に「じゃ、わたしって誰?」という問いを発すれば、わたしこそが「青空」であったという答えが、導かれるのである。

「青空」であるわたしの中には、当然「雲」も浮かんでいる。つまり「雲」もわたしの一部なのである。しかし、今までとはパースペクティブ(全体の見通し)が違っている。今までは「雲=わたし」であった。しかし今では、わたしの本質は「青空」であり、その中に「雲」が浮かんでいるということになるのである。(初期仏教の経典である「アビダルマ」には、自分が「青空」であると初めて認識したときに生じるものが「道智」、「道智」を認識し続けることが「果智」として表現されている)

 

③「仏教3.0」とは何か

「仏教2.0」の仏教哲学では、青空は条件によって作られていないもの、つまり無為法に分類されている。テーラワーダの教学ではこの世界ではこの世界は四つの構成要素によって作られている。

 

その四つとは、心、心所、色、涅槃である。

さらにもう一つまとめると、心と心所を合わせて名(ナーマ)と言う。名は精神的要素の事である。またそれに対し、色は物質的要素である。つまり、この世界は、精神的要素、物質的要素、涅槃の三つということになる。最初の二つ、名と色は条件によって作られたもの、つまり有為法である。そして涅槃は、条件によって作られていないから無為法ということになる。

 

先の雲と青空の例で言えば、雲が有為法であり、青空が無為法である。この分類法では有為法と無為法はまったく別のカテゴリーであり、そこには何の繋がりもない。

テーラワーダ仏教において我々はどこまでいっても有為法なのである。よって、無為法である涅槃は我々にとっては常に外部にあることになる。

大乗仏教には「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」という言葉がある。生死というのは有為法のことであるから、それが即、涅槃というのはテーラワーダ仏教においてはとんでもない話になってしまう。ここにテーラワーダ仏教大乗仏教の決定的な違いがある。つまり、テーラワーダ仏教にとって有為法と無為法は断絶されたものであるが、大乗仏教にとって有為法と無為法は繋がったものなのである。

 

山下氏が修行していたビルマの瞑想センターでは、テーラワーダ仏教による方法論の体系化された瞑想修行を、多くの人々が実践していた。しかし、その瞑想修行で得られるとされているはずの成果を実際に得られる人間は、山下氏以外に殆ど存在しなかった。

山下氏は、この理由が日本時代に学んでいた大乗仏教の教えにあるとしている。

山下氏は、ビルマでの瞑想修行の中で、「わたし自身が青空である」と知った時に、初めて大乗仏教の教えが自分の体験として理解できたのである。

 

つまり、先の「青空の中に雲がある。青空が私の本質であるが雲も私の一部である。」という例は、大乗仏教における「わたしにおいて有為法と無為法が一つになっている」という思想に他ならない。有為法即無為法は無為法即有為法であり、これは般若心経で言えば、まさに「色即是空 空即是色」なのである。

 

ここから、なぜ大乗仏教が興起しなければいけなかったのかがはっきりと見えてくる。瞑想実践の中で無為法と有為法が二つ別々のままではどうにもならなくなったその袋小路を打破して、大胆に有為法と無為法が即の関係で繋がっているという立場が出てきたわけである。

 

そう考えると、法華経や中国の禅や道元禅師(曹洞宗の開祖)が強調していることの意味がもっと明確になってくる。また、「諸法実相(しょほうじっそう)」「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」「現成公案(げんじょうこうあん)」という言葉も全てそこから理解することができる。つまり、これらは「仏教2.0」を乗り越えるための鍵なのである。

「仏教2.0」が行き詰った理由は、「有為法」である自分が一生懸命に瞑想して、別の世界である「無為法」に行こうとしたからなのである。瞑想にしろ坐禅にしろ、「無為法である自分」に目覚めるところからしか始まらないのである。

「仏教3.0」とは、何か新しい思想などではなく、ずっと昔から存在していた大乗仏教の思想そのものなのである。

 

道元禅師の思想を紐解く上で重要になる考え方の一つに「修証一等」というものがある。これは「悟り」と「修行」を等しいもの(一等)として捉えるという意味である。人間は本来悟っているからこそ、本来的悟りを自覚的に顕現するために修行が必要である、ということである。この考えは、当時の日本仏教界で支配的だった天台本覚論(人間とは本来的に仏なのであるから、特別な修行は必要ないという思想。修行不要論。)ではあきたらなかった道元禅師が、禅宗に転向して打ち立てた修行論である。

 

つまり道元禅師の思想は、具体的な方法論を説かない「仏教1.0」の思想を超えようとする形で誕生したのである。しかし、それと同時に、今の自分とは全く別の世界に行こうとする「仏教2.0」の思想を超えるための思想として、本書では扱われているというのは非常に興味深い。「仏教3.0」とは、「仏教1.0」と「仏教2.0」の間に存在している、つまり「中道」に位置している思想なのである。