森崎日記

読書メーターから来ました

佐々木 閑『NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば』の感想及びまとめ

 

 

 

 

 

「空」という概念における上座部仏教大乗仏教の違い

 

 


P112〜 「上座部仏教」と「大乗仏教」では、同じ言葉を使っていながら、解釈や位置づけが全く異なるというケースが沢山ある。たとえば「空(くう)」が典型例である。「空」は「般若心経」の一節である「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」などの文句で知られ、「仏教の真髄は空の思想にある」といった見解もしばしば見受けられる。

 

「空」という単語は、上座部仏教でも用いられている。しかし、上座部仏教における「空」は大乗仏教におけるほど重要視される概念ではない。たとえば、「ダンマパダ(法句経-ほっくぎょ仏典の一つ 仏教の教えを短い詩節の形で伝えた韻文のみからなる経典)」には次のような言葉がある。

 

『物を蓄えることなく、食べ物に関して正しく理解し、「空にして無相なる解脱」を境地とする人びとの向かう先は、空飛ぶ鳥の向かう先と同じく、追跡することが難しい」』「空にして無相」というのは、この世の事物には固定した本質はなく、永続的な現れは何一つないという意味である。その「空」と「無相」を体得し、解脱した者は、空飛ぶ鳥が一切の行跡を残さないように、誰も追跡できない特別な境地へと向かう、という意味です。

 

また、同じよう上座部仏教で用いられた「空」の例としては、「スッタニパータ(仏教世界で最古の古典、P42に記述あり)」に、「「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世は空であると見よ」というものがある。

 

これらの「空」は「諸行無常(すべてはうつろう、永遠不滅のものなどどこにもない、すべてのものごとに永遠の実体はない)」を別の言い方で表現したような言葉であり、大変重要な概念である。しかしそれも、この世の正しい在りようをみるための様々な視点の一つに過ぎないのであって、「空」だけが特別重要な原理として別格扱いさているわけではない。

 

それが大乗仏教になると「空」は教えの主役になっている。因果関係を無視して何でもしてくれる超越的な絶対者が存在せず、ひたすらな自己責任と自己鍛錬を背負わなければいけない上座部仏教と違って、大乗仏教において「人が救われるかどうか」は、必ずしも原因と結果の法則によるわけではない。

 

それは大乗仏教が、その因果則を超えて、我々を不思議な力で仏の境地へと導いてくれる特別な何かがある(神秘的な作用を想定している)と考えるからである。しかしこの理論を根拠づけるためには、それまでの因果則をどこかで崩さねならない。

 

そこで大乗仏教では、「私たちが想定しているものごとの関係性はたんなる錯覚であり、その背後には、凡人には理解困難な、より高次な世界がある」と主張するようになる。これが「世界の本質は、きわめて深淵にして理解の難しい原理にもとづいている」という主張になり、「空」の思想を形成していくになるのである。

 

 

「空」という概念における上座部仏教大乗仏教の違い 要約

P112〜上座部仏教において「空」は「諸行無常」を別の言い方で表したような言葉であり、大変重要な概念である。しかしそれは、この世の正しい在りようを見るための様々な視点の一つに過ぎず、「空」を特別重要な原理として別格扱いしている大乗仏教と比較すると、上座部仏教は「空」をそこまで重要視していない。

 

因果関係を無視して何でもしてくれる超越的な絶対者が存在せず、徹底的な自己責任と自己鍛錬が要求される上座部仏教に対して、大乗仏教における「人が救われるかどうか」は、上座部仏教のように「全てが原因と結果の法則で決まる」いうわけではない。

 

それは大乗仏教が、その因果則を超えて、我々を不思議な力で仏の境地へと導いてくれる特別な何かがある(神秘的な作用を想定している)と考えるからである。しかしこの理論を根拠づけるためには、それまでの因果則をどこかで崩さねばならない。

 

そこで大乗仏教では、「私たちが想定しているものごとの関係性はたんなる錯覚であり、その背後には、凡人には理解困難な、より高次な世界がある」と主張するようになる。これが「世界の本質は、きわめて深淵にして理解の難しい原理にもとづいている」という主張になり、大乗仏教における「空」の思想を形成していくようになる。

 

「真理の言葉(ダンマパダ)」とは何か

 

「ダンマパダ」は、漢訳では「法句経(ほっくぎょう)」と言い、日本では「真理のことば」というタイトルで翻訳されている。「ダンマパダ」は、仏教をよりどころにして生きようとする人が、どのような心構えでものを見、ものを考え、悟りへの道を進んだらよいかという基本的な指針を示した経典(きょうてん)である。

 

生きるという事そのものが苦しみだと気付き、この世が「一切皆苦(いっさいかいく)」という事を身をもって知ったブッダは、当時のインドで支配的だった「輪廻転生(りんねてんしょう):この宇宙には「天」「人」「畜生」「餓鬼」「地獄」という五つの世界があって、生きとし生きるものは、自らのなした行為によって必ず五つの世界のどれかへ生まれ変わり、グルグルと巡り続ける、といったインド社会で古来より受け継がれてきた伝統的な観念」に絶望する。

 

ブッダが目指したのは、生きるという苦しみを、輪廻により永遠に繰り返させられるという絶対的な苦悩の中で生きる私達が、それでも心を平安に保ち、安穏な人生を歩んでいくにはどうしたらよいのかというその一点にある。そしてブッダは、輪廻の原因を私達の心に見出した。

 

心が生み出す悪心や悪行が輪廻を生み出す。つまり、輪廻を停止させ、永遠に変化しない絶対安穏な状態になるためには、我々の中の煩悩を完全に断ち切らなければいけない。自身の努力により煩悩を断ち切る事、これこそが一切皆苦の世界で真の幸福を手に入れる唯一の道である。ブッダはそのように考えた。

 

人が老い、衰え、死ぬ事はこの世の法則、自然の摂理であり、それを変える事もなくすこともできないのであれば、それを受け入れる側の自分の在り方を変えるしかない。そこにブッダの教えの本義がある。

 

 

四諦とは何か

 

ブッダが悟ったこの世の真理を四諦(しだい)と言う。四諦上座部仏教の基本方針である。

 

苦諦(くたい:生きることは本質的に苦である)

集諦(じったい:苦の原因は煩悩である)

滅諦(めったい:煩悩を消すことで苦が滅する)

道諦(どうたい:煩悩を無くし、悟りを得るための八つの道)

 

道諦の中で説明された八つの道を八正道と言う。

 

八正道とは何か

 

八正道の中身

 

正見(しょうけん:正しいものの見方)

正思惟(しょうしゆい:正見にもとづいた正しい考えを持つ)

正語(しょうご:正見にもとづいた正しい言葉を語る)

正業(しょうごう:正見にもとづいた正しい行いをする)

正命(しょうみょう:正見にもとづいた正しい生活を送る)

正精進(しょうしょうじん:正見にもとづいた正しい努力をする)

正念(しょうねん:正見にもとづいた正しい自覚をする)

正定(しょうじょう:正見にもとづいた正しい瞑想をする)

 

正しいという形容詞が重要である。これは、自分中心の見解を捨て、この世の在りようを客観的に合理的に見るという意味を含んでいる。四諦八正道は上座部仏教において非常に重要な経典である。

 

執着とは何か

 

上座部仏教において重要なキーワードは、「執著(しゅうじゃく:執着とほぼ同じ意味)を手放す」という事である。多くの人間は好き好んで執着の心を引き起こしているわけではない。むしろ執着の心を手放せたらどんなに楽だろうと思っている。

 

しかし、それをわかっていながらも逃れられず、一つの欲望を満たすと、次から次へ欲望が膨らみ、果てもなく貪欲になってしまうのが人間の現実の姿である。しかし、「自分の執著に気付くこと」や、「少しでも執著を手放そうと心がけること」で、多かれ少なかれ、我々の思考に変化が起きるであろう。

 

何故執著が生まれてくるのか。我々はまず、自我というものを世界の中心に想定する。そしてそのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に形作る。そのいちばん外側に、世界と呼ばれる一般社会を配置する。

 

自分はこの世界の主であるため、手に入っていないものがあれば手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やしていこうとする。これが執著である。すなわち、執著とは、この「自分中心」の世界観から発生する。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は消えることがなく、きりがない。

 

しかし、その自分を、「それは存在しない仮想の存在である」として、その絶対存在性を否定すると、まわりにある所有世界も自然に消える。自分が本質のない仮想存在なのだから、それを取り巻く世界も仮想だということになり、執著もおのずと消える。これを表す言葉を「諸法無我」と言う。

 

P.78〜 上座部仏教とは、自分で自分を変えていく、または自分で自己を変えることができると信じる宗教である。ここで言う「自分」も、決して絶対的な自己を意味していない。あくまで、さまざまな要素が組み合わさったところに現れてくる、今現在の「自己認識機能」「意思機能」を言うのである。また大事な事は、ゲームの中で上手くやろうと努力する事よりも、ゲームの外側に出ようと努力する事である。

 

諸行無常」「諸法無我」とは何か

 

上座部仏教において、「諸行無常」と「諸法無我」が、この世界を正しく見るための羅針盤である。

 

諸行無常」とは、「我々の行(ぎょう)は無常である」という意味である。

 

行というのは、「原因と結果の因果関係によってこの世に生まれ出るすべてのもの」という意味である。行は別名「有為(うい)」とも言う。

 

一方、「諸法無我」は「諸々の法は無我である」という意味である。

 

法というのは、行よりも一層広い概念で、「因果則によってこの世に現れ出る全てのものと、そして、因果則を離れて不変不滅の状態にあるもの」を合わせて呼ぶ名称である。

 

ここで言っている「因果則を離れて不変不滅の状態にあるもの」とは、煩悩を消し、輪廻の流れを断ち切り、時間のない状態に入って絶対の安穏を得ているその状態、つまり涅槃の事を言っているのである。

 

このような不変不滅の状態は、有為の反対、つまり「無為(むい)」と呼ばれている。

 

したがって法という語は、有為と無為の両方を含んでいる。有為法を見ても無為法を見ても、どこにも「自分」という絶対存在など無い。そのため、「諸法無我」と言われるのである。

 

一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静

 

P.77~ 車輪は「回転して荷物を運ぶ」という独自の動きをする、絶対的な存在であるかのようにしてそこにある。しかしそれは、それぞれ別個の部品が集まり結合した仮の存在、つまりさまざまな構成要素の集合体に過ぎない。

 

もしその結合が解けて、部品がバラバラになってしまえば、そこにはもう「車輪」は存在しない。そして、「回転して荷物を運ぶ」という機能も消滅する。「私」という存在は、車輪と同じように、要素が合体したところに現れてくる、一つの機能に過ぎない。

 

ただし、車輪と違い、その機能には「意思作用」が含まれていため、将来に向けて自分の在り方をどう決めていくか、という点で自分自身をコントロールする力がある。だからこそ、ブッダの教えに従って「一切皆苦」の世界を抜け出し、涅槃に入る、という道を進むことが可能になる。

 

一切皆苦

諸行無常

諸法無我

 

 

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう:仏教における絶対平安の境地。時間の流れを超えた真の安らぎ」

 

を加えて、ここにブッダの教えの骨格が現れてくる。

 

日常生活における仏教の実践方法

 

P.107〜 アメリカの仏教徒たちは、出家を行わずにブッダの教えを学び、精神の安定や自己の向上を目指そうとする。彼らは仕事を終えたあと家に帰り、自分の部屋で数時間瞑想するというスタイルをとっている。

 

暗くした部屋の中でナイトスタンドをつけて修行するので「ナイトスタンド・ブディスト」と呼ばれ、その数はアメリカだけで三百万人に達すると推定されている。彼らにとっても、「ダンマパダ」は愛読必携の書である。

 

出家という行為は、心の改良を進めるための手段であって、決して目的ではない。普通の社会生活を送る中で出家に準じた生活方法を取り入れ、悟りに近づくことができるならば、それでもいいわけである。

 

日常生活を送る中でも、仏教の経典を学び、それを日常生活の中で実践し、また日常的に座禅を行い続ける、という事が重要なのであろうと思った。

 

 

P.106〜 瞑想が深まっていくプロセスは、「自転車」の練習と似ている。最初は倒れてばかりで上手く乗れないが、辛抱強く練習を続けていると、ある時、突然、「できた!」という習慣がやってくる。

 

それも最初は長く続かないが、辛抱して続けていると、「できた!」の瞬間がだんだん長くなり、ついにはいつまでも好きなだけ乗っていられるようになる。

 

瞑想もそれと同じで、瞑想しようと思った時にいつでもどこでも自在に入れるようになる。そしてその精神の集中力を利用して、自分の心の在りようを正しく観察し、改良していく。それが仏教修行の枠組みである。

 

自分の心を観察する、という事が大切なのである。ブッダが説いた修行の道は、一歩一歩地道にのぼっていくものであり、なにか秘法で一瞬に悟るといった神秘的なものではない。ブッダも、そしてブッダに従った弟子たちも、毎日々々の修練を繰り返す中で、少しづつ自分を変えていって、その結果として、苦しみのない平安な心が完成したのである。

 

仏教における自己の変化は、0か100か、ではない。

 

科学と仏教

 

P.161~ 脳神経科学や認知科学が示すように、私達の日々の認識には、自分では気づかない無数の錯覚や思い込みが紛れ込んでいる。それらの錯覚には、修正不可能なものもあるであろうし、トレーニングにより修正可能なものもあるだろう。

 

例えばブッダが「煩悩の代表」として強く否定した「自我の概念」、つまり「私という実体がある」という誤った革新も、そういった修正可能な錯覚の一つだとみなすことができる。ブッダは長年の修行によりそれを断ち切り、「自我の概念」が「修正可能な錯覚だ」ということを身をもって我々に示したのである。

 

ここまで考えてくると、釈迦の仏教がやろうとしていたことを、脳神経科学の視点で言い換えることができる。私達は脳という特殊な器官を通じてさまざまな認識を心の中に起こすが、そこには現実の在り方とは違う錯覚が無数に含まれている。

 

その錯覚の中には、有意義なものもあれば、苦しみをもたらすものもある。その苦しみに結び付いた錯覚を遮断することができれば、私達は多くの精神的苦痛から開放される。つまり、そのための修行を積んで、良からぬ錯覚が二度と起こらないように自己の状態を変えること、それが仏教の目指す道ということになる。

 

P.162〜 科学と仏教は、それぞれの独立性を常に念頭に置く必要がある。科学の発展がそのまま「人の幸せ」に繋がるわけではない。また仏教の興隆が「社会の発展」を促進するわけではない。

 

両者は存在意義が違っているため、その用途・目的を正しく理解した上で、間違った使い方をしないように注意する必要がある。両者をバランスよく世界観の中に取り組む事ができれば、「科学的世界観を土台にして生きる現代人が、一貫した死生観を持ちながら人生を全うする」ための道も開けるはずである。

 

P.163~ 現代において、神秘的なもの、科学的ではないものを心の底から信じるという事が、昔と違って非常に難しくなっている。その一方で、諸行無常は今も昔も変わらないこの世の真実である。

 

その無常転変の世の中で心穏やかに生きていくために仏教という宗教があるのならば、仏教は現代に生きる人々にとっても役に立つものでなければならないはずである。そのためにも、科学と仏教の接点を明確にして、現代人にとっても十分納得のいく宗教として、仏教の姿を説明する事が必要なのである。

 

「真理のことば(ダンマパダ)」特に印象に残った言葉

 

P.83 「骨が組み合わさって城郭が作られ、そこに肉と血が塗られ、その中に「老い」と「死」と「傲慢」と「ごまかし」が鎮座している。」という「真理のことば」の中の一文が強烈。

 

「他人の間違いに目を向けるな。他人がした事、しなかった事に目を向けるな。ただ、自分がやった事、やらなかった事だけを見つめよ。(50)」

 

「善は急げ。心を悪から遠ざけよ。徳を積むのにのろのろしていたら、心は悪事に惹かれてしまう。(116)」

 

「怒らないことによって怒りに打ち勝て。善いことによって善からぬことに打ち勝て。布施することによって物惜しみに打ち勝て。真実によって嘘つきに打ち勝て。(223)」

 

行動を制御するのは善いことだ。言葉を制御するのは善いことだ。心を制御するのは善いことだ。すべてにおいて、制御は善いことだ。すべてにおいて制御した仏教修行者はあらゆる苦しみから逃れ出る。(361)

 

「貪りながら生きている人たちの中で、私は貪らずに、安楽に生きよう。貪りながら生きている人たちの中で、貪ることなく暮らしていこう。(199)」

 

「生き物たちにとって、悟りの修行を続けるよりほかに、幸せなど考えられない。感官を制御し、すべてを放棄することよりほかに、幸せなど考えられない。」