森崎日記

読書メーターから来ました

芸術作品へはどのように向き合えばよいのか 椹木野衣「感性は感動しないー美術の見方、批評の作法 (教養みらい選書)」 感想及びまとめ

 

・感性とはなにか

岡本太郎は感性について次のように言っている。

「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。自分自身をいろいろな条件にぶつけることによって、はじめて自分全体の中に燃え上がり、広がるものが感性だよ。」

ある絵を見て、ネガティブな感情を抱く事を、芸術は排除するべきではない。ネガティブな感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていた何かに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。

どんな絵に心を揺さぶられるのかは、本人にしかわからない。感性がみがけないというのは煎じ詰めればそういうことだ。

 

つまり、芸術における感性とは、あくまで見る側の心の自由にある。決して高められるようなしろものではない。その代わりに貶められる事も無い。

その人がその人であるということ、それだけが感性の根拠だからだ。たしかに個人の感じ方には、当人の教育や慣習といった様々な背景によって色が付いている。

しかし、それはそれでよいのである。芸術とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れたままの自分が良いのだ。

 

・美術の見方

P.12〜 絵を鑑賞するのに大切なのは、なにかを学ぼうとしないことである。絵をまるごと受け止めること、ひたすら感じ取ることが大切なのである。

これは、無の境地で絵に接するというのとも違う。人は何も考えていないようでも、雑念の中で筋道の立っていない乱雑な思考を行っている。

美術作品の鑑賞において、感想を文章に書き起こしたり、作品に関わる文章を読んだり、それらを反芻(はんすう)する事で、乱雑な思考の渾然一体とした思いや感情や印象や考えの矛盾の「かたまり」のような豊かさが選別され、角が落とされ、成形されることは当然ありえる。

これは非情に惜しい事である。なぜなら、そういった腑分けされていない「かたまり」のような状態も、立派な「思考」だからである。

 

そして、創造的な飛躍やひらめき、天から降ってきたようなアイデアというのは、こうした「かたまり」の思考がふつふつと化学反応のようなことを起こして、自分でもわからないまま、その「すきま」からひょいと飛び出してきたものなのである。

絵というのはこの「かたまり」としての思考に近い状態である。絵を描く人はいろんなことを考え、感じ、思いながら絵を仕上げる。

もちろん、その過程で時間は過去から現在、未来へと流れる。しかし、完成した絵はそうした時間をひとつの面のうえに圧縮した状態である。

いわば過程を集積した「状態」である。だからこそ、そういう「かたまり」としての絵を見るときには、私たちもまたそれを「かたまり」として受け取る必要がある。

 

絵と向き合った時には漠然と思いをめぐらすのがよい。歴史的背景などの情報に惑わされるのではなく、ただ見て感じるのである。

そうしていると、「昨日の夕飯の形に似ている」や「この山は故郷の山に似ている」といった、どうでもいいと思われるような考えが浮かんでは消え、グチャグチャと混ざりながら一斉に動き出す。実は、「かたまり」というのはそういう状態なのである。

 

 

絵が作られる時の過程と同じように、鑑賞者側も絵に向き合うことがこの本では推奨されていた。